琉球風水の歴史
沖縄では14世紀後半、察度王の時代に当時風水の盛んだった福建から36姓が久米村に移り住みました。
彼らによって沖縄に風水思想がもたらされたと思われます。
記録上では、1667年に周国俊という人が福建で風水を学んで帰って来たというのが最初で、その後1868年の明治維新に至るまで琉球王国はわざわざ風水を学ぶために留学生を福建に送っているのです。
あの有名な蔡温(さいおん)もその中の一人です。
1713年に毛文哲と蔡温が首里城の風水判断をしましたが、その内容は「首里城の地は氣の流れが良く、国殿の向きや道路の方向、門の配置がみな風水の考えに適っている。
前方に眺められる慶良間列島が氣の漏れを塞いで、左の小禄、豊見城方面 の丘陵や、右の北谷、読谷山の峰がそれぞれ都を守る形になっており、後方の山々は城を背後から守護し嶽々の森は氣の発生を助けていて、首里の都は大変風水が良い。
」というものでした。
一方、風水的に欠陥があるところには松の木を植えて気が漏れるのを防ぐように指示しています。
このように、蔡温の時代には森や御嶽(うたき)から生ずる氣のエネルギーを重要視し、風水を改善する方法として植林がしばしば用いられています。
経済的な視点からは、那覇、泊、安謝の港が国の血脈であり、吉方から進入するようになっていて良い風水をもたらしている。
これらを、保全して活力を与えることが重要であると言っています。
琉球王朝時代には、海外との貿易がかなり大きなウエイトを占めていたことが伺えます。
蔡温の時代から300年ほど経った現在でも、那覇、泊、安謝の三江は物流の拠点として重要な位 置を占めています。
また、戦後沖縄の大動脈である国道58号線が作られ西海岸地域が経済的に大きく発展しましたが、その背景には風水的吉相地であったことも関係しているのではないでしょうか。
この吉相地に那覇国際空港も作られ、現在旅客や物流の拠点となっています。